「春のはじめのころに」解説です

劇画連載の合間に、作者自らによる解説です。

突然はじめてしまった人生初の劇画・「春のはじめのころに」、
楽しみに読んでくださっている方々がけっこういるようで
本当にありがとうございます。





今回は先日UPした第12回について。


この劇画、テーマや世界観や個々の登場人物については
連載終了後にもっとくわしく書くつもり。

とくに、ヒイナという一風変わった子供について。
彼女を通して表したかったものは、改めて解説したいなーと思っています。



「春のはじめのころに」では
人間のいろいろな姿を描き出すために、
人のいやらしい面とか、残酷な場面とか
重いエピソードも時に盛り込んでおりますが


先日UPした第12回は、おそらく作品中でもっとも明るいエピソードが入っているはず。


人間のいろいろな面の中で
とくに「美しい面を描きたい」という思いが強く出た回になっています。



この回では、ヒイナを助ける役として修道院の院長が出てきていますが
彼のエピソードはあえて、意図的にキリストに似せております

修道士の顔12.6.3
修道院長先生。

手の傷にまつわる話はもちろん、

弟子の名前が「ペトロ」だということ
「ペトロ」はイエス・キリストの一番弟子で、もと漁師です。


病気の人々の世話をしていること

キリストも多くの病人を奇跡で治したそうです。

もっともこの修道院長は人間ですから、キリストのように完治させることは無理なのですが――

「永遠の王国」が崩壊したあとという、混沌と弱肉強食の世界で
こういう人がいる!ということは、
世話を受けた人々の心にずっと残るのではないかな。

(残ればいいな、という私自身の思いも含めて)




修道院の建物や、修道士たちの衣装は
複数の資料を見つつ、すべてオリジナルで考えました。

だから、「これはどこの修道会だ??」とかあまり突っ込みませんように(笑)。


髪の毛だって、本当はもっと短いはずですし
真ん中をそり落としているはずなんですよね。

(ほら、俗に言う「ザビエルはげ」というやつですよ/笑
茨の冠をかぶったイエス・キリストの苦しみを表すためなんですって)

でもここでは私の美的意識の方を優先しました!



なお、この修道院長先生ですが。

あの黒い天使を人間役で登場させているんですよ、実は!



造形上のひな型が同じなのです。

黒天使劇画タッチ6.30001


しかしそれを考えると、相変わらずひどい目にあいっぱなしですな・・・
ゴメンね、アッシュエル・・・

でも人間の歴史って、聖性蹂躙の歴史だしねぇ・・・
冒頭に出てくる崩れた聖堂のように。
そういう中で人々の救いになってほしいのよ。



最後にこちら。


春12-130001

獣目はあいかわらずです(笑)。
ただ、彼は修道院長の背負った過去のことは知らないんですね。
知っていたらまた違ってくるのかな。


さて、ここで彼が言っている「放蕩息子」について。


これは、「新約聖書」ルカ伝(だったと思う)にでてくるたとえ話です。

こんな話。↓

ある裕福な男がいて、息子を2人持っていました。
弟の方がある時、自分のもらう財産を先払いしてくれと言って
分け前をもらうや、さっさと家を出てしまいました。

弟はすぐに遊蕩に金を使い果たし、豚飼いにまで身を落とします。
彼はようやく後悔し、家に戻って父親に詫びました。
そんな弟息子を父親は温かく出迎えます。

兄は「なんでこんなやつを歓迎するんだ」と不満を言いましたが、
父親は
「お前の弟は死んでいたのによみがえり、いなくなっていたのに見つかったのだ。
なんでこれを祝わずにいられよう」と答えました。




放蕩息子は、正しい道を見失ってしまう人間のこと。
父親は、そんな人間が罪を悔いたときにゆるしてくれる神のことです。


劇画の中で、獣目が
「俺はしょせん放蕩息子なんだ。豚どもの餌で腹を満たす」と言っているのは
この話をもとにしているのです。
たとえ話の放蕩息子は、反省して家に帰ったけど
自分はそんなつもりはない、というわけ。

しかし、こいつ盗賊の身でなかなかよく知っていますねえ。
案外、育ちがよかったりして・・・




臨時の解説、いかがでしたでしょうか。

今、次の回も必死で描いていますので
どうか今後もよろしくお願いいたします!
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