帰ってきた長崎の天使

天使の手、12.9.100001
最近の作品より、天使の手。


前回、共感覚作品の解説
ヘヴン・アンド・ヘルというバンドのことを書きました。

今回は、彼らとの出会いについて書きたいと思います。



いままでずっと、書く勇気がなかったんです。

自分の心の、かなり根本的なところに関わってくることでしたし
その出会いのいきさつもきわめて個人的で特異なものですので。




ヘヴン・アンド・ヘルが
雷に打たれたような衝撃だった――ということをお話しするには
私の幼少期までさかのぼる必要があります。

いささか迂遠になりますが、飽きなかったら読んで下さい。




彼らに出会ったおかげで、私は自分の恐怖と向き会えるようになった――と書きました。


ここに、一枚の写真があります。

東松照明12.9.180001
(芸術新潮1995年1月号より転載)

東松照明の撮影した、長崎の天使の写真です。



これは私の抱いていた恐怖を、端的に示した画像です。



神が絶対的な正義であるという。
信じる者は救われると言う。

でも、なぜ人は信じても救われないのか。
信じても人を救えないのか。




私は幼少期から、(これほど明確ではないにせよ)
この問題とはなれられず
ついにはなかば強迫観念=オブセッションと化したのですが
なぜこうなったかにはふたつの理由が考えられます。




1つ目の理由は、

私は生まれつき、
印象に残った画像や映像がいつまでも頭に残ってしまうということ。
恐ろしいものほど残りやすいのです。





二つ目の理由は、

私がキリスト教教育を受けて育ったこと。


いまおもえば、かなり厳格なキリスト教教育でした。
(ジャージの襟を立てるのは悪魔の図像に通じるから禁止・・・なんて
真面目に先生が指導するような学校です)

その中で、個人的にはかなり素直に
キリスト教世界になじみつつも
宗教というものが人の心にもたらす
矛盾やゆがみもしっかり見てきました。




このふたつは成長してからもずっと私に付きまとい続けました。


そのうちに「蹂躙された聖性」のイメージが次第に明確になってきます。


“神の沈黙”については
私が愛読している遠藤周作が生涯のテーマにしていますが
似たようなことを私も考え続けていたのです。



神が沈黙しているはずはない、そんなことは信じたくないと言う思いが
「人間によって受難した天使」のイメージに集約していきました。


天使は、この世の苦しみとは無縁の天国から見下ろしているのでなく
その苦しみの中にいるはずだという思い。

そこにあらわれた天使は
ひとことで言うなら「堕天使」ですが
それは聖性を保ったままの堕天使です。



その後にも、同じようなイメージには繰り返し出会いました。


たとえば


ナチの強制収容所の写真とか

文化大革命で破壊されたチベットの仏像とか

空爆で廃墟になった寺院や教会とか・・・




まあ少なくとも、神の摂理について悩む機会なら
私には山ほどありました。





でも私は、このオブセッション(もしくはトラウマ)をかかえたまま
正面から向き合うことができないでいたのです。



どうにかしてこの疑問に答えを出したかったけど
その、答えを出す方法は自分の制作しかないと
うすうす分かりかけて来たけど――

どうしても形になってくれなかった。




何と言うのかな、表現するための「媒介」になってくれるもの、
自分の心を根底から揺さぶり、表現の“形相”を得るための鍵が必要だったのです。

※形相とはアリストテレスが使った言葉で
 ものごとの形を決める要素です。


これは私に限らず、アーティストはよく、そういう「媒介」を探すものです。
漠然としたヴィジョンが、
あるひとつのエポックとなる出会いをきっかけに突然、形を持ってはっきりと浮かぶということ。

たとえば画家にとって、ひとりのモデルとの出会いが
制作の一大転機となるとかは、よくあることです。




トラウマを表現することができないまま、2007年になって
「それ」は起こりました。



私はある日偶然に
ロニー時代のブラック・サバスの映像を見ました。
おそらく1980年くらいの映像だったと思います。


それを見た瞬間に、いままで20年近くわだかまっていた
表現されないままのヴィジョンが
一気に形を持って噴きあげたのです。



求めていたイメージが、一瞬にして形を持ちました。
「長崎の天使が帰ってきた!」という想念が
差しこむように頭に浮かびました。




そのときの自分の心理状態を的確に言い表すことは
いまでもとても難しいです。

いま考えたって、その突拍子もない“イメージの連鎖”が
どうやって起こったのか、謎ですから。


ただ、ロニーの歌う楽曲と、姿と、声が
「聖性を保ったままの堕天使」を描くための大きなきっかけになったのは事実です。


彼の容貌そのものが、まるで中世の彫刻のようだったというのもあるかもしれません。



“神の沈黙”という問題に
答えが出たわけではありませんでした。

これはそもそも、答えの出ない問いなんでしょうね。たぶん一生。


逆に問い続けることにこそ、意味があるんだと思います。



だから私はずっと天使像を描き続けるつもりです。

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プロフィール

探究者ニキ

Author:探究者ニキ
安藤ニキ
神奈川県横浜市生まれ、
慶応義塾大学文学部哲学科卒業の画家。
油彩・版画・ドローイングなど表現方法はさまざま。たまーに漫画も描きます。
作品のお問い合わせはnikiあっとando-kobo.jpへお願いいたします。

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