告発しない告発の話

いままで、つらつらと制作秘話めいたことを書いてきましたとおり
私の制作というのは
私自身の恐怖やオブセッションそのものから来ております。

ゴーレムの城の門 油彩・キャンバス F4号 2012年0001
(ブラック・サバスの曲で「見えた」画像。油彩版完成です)



それがまた、普通だったら
“学校の平和学習”とか
“むずかしい話”とか
“ペシミストの哲学者が書いた本”(そんなカテゴリあるのか?w)
なんかに出てくるようなネタばっかりで。



「自分にとってリアリティのあるものを表現する」というのは
デビュー以前からずっと私の制作態度でしたが
その「リアリティのあるもの」があきらかに普通でない、というところに
制作の特殊性があるような気がします。




ブラック・サバスと戦争写真と
ドキュメンタリーと東松照明と澁澤龍彦と自身の直接体験とが
同じ系列で認識されているのが
私の世界ですからねぇ。




ここで出てくるのが、「告発」をどうとらえるかという問題です。



私は作品のどこにも「告発」につながるものを描きません。
描かないと言うよりは、自然に“描けない”んですね。
私自身が興ざめしてしまうから。

明らかな告発の態度をとってしまうと、
その時点で自分の作品をささえている最も重要な、根本的なものが
スコンと抜け落ちてしまう
ような気がするのです。




人間というものを徹底して個人でとらえること
癖になっているというのもあります。
告発というのは、人間を個人でなく集団ととらえて行うものだと思うから
告発からは離れるわけです。



そして、
テーマを限定して済むものではない、ということ。
告発とは対象を限定しなければありえないものです。


物ごころついた時から
写真やドキュメンタリーや、いろいろなものが
「怖いものリスト」に載ってきまして
今になったらまた震災後の世界を生きることになってしまった。



でもねぇ、
どうやら私は
戦争の写真が怖かったら戦争をテーマにする
震災が起こったら震災をテーマにする、みたいな反応の仕方ができないみたい。





体験した恐怖そのものは、ほかならない実体験であるけれど――

恐怖はその源泉を表現するだけでは、吐きだすことができないのです。
じゃあどうなるかというと、制作全体に影響を及ぼしてしまうんですね。


どんなに関係のないモチーフを描いているように見えても
どこかで深く影響してしまう。



たしかに、報道写真や記録写真やドキュメンタリー(国を問わず)が
強いトラウマになってはいますよ。

でも、そこでいきなり
特定の敵に対して闘争心バリバリの絵を描いても
なんか違うんだな・・・という気がするわけ。


私がたとえそんな絵を描いたとしても
個人のトラウマをスローガンにすり替えた
うすっぺらな作品にしかならない
でしょう。



耳元で天使がささやいてるのよ、
「そんな作品誰が見たいんだい?」と。



自分のトラウマは自分にしかないもの、
ある意味ではかけがえのない個人の体験として
もっと突き詰めて考えたいんですね。




もっとも、これは私が自分のアートについて考えていることであり
まったく別の制作態度もあります。




明確なターゲットに対して告発はしないけれど
それでも、自分の抱えてきた恐怖を無視することはできないし、
せっかく言葉を取り戻したのだから
この上でなお沈黙することはできない
という、
そのぎりぎりの線でいつも絵を描いてきました。




これからもそうするでしょう。



たとえば小山田二郎の、
「具体的な・分かりやすい」告発を描きこまず
それでも見る人に人間の深淵を突き付けずにはおかない作品、
そんな作品を描きたいんです。

小山田二郎12.9.240001
(小山田二郎の“鳥女”。芸術新潮1994年4月より)





また、私は作品と見る人のつながりを次のように考えています。



作品というのは個人から個人への呼びかけであり
作品を生み出す人と受け取る人(見る人や買う人)とのつながりは
最初から最後まできわめて単独なもの、ただひとつのつながりです。

そのつながりが他ならない「ただひとつの」ものであるということが
作品の価値であり、かけがえのなさであり、重要さなのだと思います。



そしてすぐれた作品とは、その「ただひとつの」つながりを
いかに多様な人に及ぼすか――で決まるのだ、と。



ある作品を心の底から気に入ったというとき、
それは見る人個人の中に響くものがあったから。

あたりまえのことのようですが、ここで重要なのは
あくまで個人として受け取ったということです。


そして、この個人から個人への呼びかけと
呼びかけに対する反応は
どんなに数を拡大しても「集団への呼びかけ」に転化することはないと考えます。


さっき書いたように
告発というのは「集団への呼びかけ」であるから
ここでも、私の目的とはずれるわけです。






私のこのような制作態度は、
(何度も出てきた言葉ですが)きわめて個人的なものです。

しかし、そうして生み出された作品は
個人的なものであればあるだけ
逆に、より正直に
「その時代の中にいる個人」の姿を反映しているのではないでしょうか。

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