ペシミズムの救済――ブラック・サバスがくれたもの

12.10.12.国立
只今、国立のアートイマジンギャラリーで展示中の共感覚作品。
(本文とはさほど関係ありません・・・けど、両方ともサバスの曲だからなぁ/笑)

書きだしたらやったら長くなってしまったので
分けて載せることにしました(苦笑)



ペシミズムとは悲観主義、厭世主義と訳されます。
この世は悪が支配しており、苦しみの方が多いと見る見方です。

最初にお断りしておきますと、
「ペシミズムの救済」と書いたのは「ペシミズムからの救済」ではなく
「ペシミズムによって得られる救済」という意味です。



私にとって、ブラック・サバスとの出会いは
そうとしか表現しえないものでした。

「暗黒は暗黒のままとらえるべきである」というのは
彼らが示してくれたひとつの姿勢であり
私の表現の“背骨”をつくってくれたものです。


ここで言うブラック・サバスには
06年末~10年のヘヴン・アンド・ヘル(実質的なロニー時代サバス再結成)も含まれます。


「暗黒を暗黒のままとらえる」とは
あたりまえのようですが
実際には、“許されないこと”とされがちなのです。



それは“希望を持つことの強制”という形であらわれます。
ポジティブになれない人間はそれ自体が悪なのだ、みたいな。

そういう、見えない圧力を感じることってないですか?


この世界のさまざまな現実を見ると
“ちょっとした破滅”みたいなのがあちこちに散らばっていて
それがあまりに多いことに気付いて、慄然とする。
しかもその多くが人災だったりする。

愛と平和、ラヴ・アンド・ピース。
人間の本性は善である。

それらの言葉は中身が流れ去った、抜け殻のようにしか思えない。
だって現実を見れば
そうでないことの方が、はるかに多いんだから。

にもかかわらず、
「人間に希望をもたないなんて許さん!」みたいな空気が
あたりに満ちているのを感じたこと、
ないですか?



私はあります。

すごくよくあります。



で、どうにかして「人間に希望を持つ」べく
ネガティブな気分、もっと言えば絶望感にふたをして
なんとか、自分が見ている現実を
明るい方向に解釈しようとしていました。

ほとんど自分に暗示をかけるようにして
時には、現実をねじ曲げて。


で、いつしかそれに疲れてしまった。




ここでとりあげたいのは、またもや
フランクルの「夜と霧」
前にちょっととりあげたことがあります

この著作が名著であることを断言したうえで
“紹介のされ方”を見ていて感じたことがあるので。


「夜と霧」の中に
“どんな絶望の中にも希望がある”というメッセージとして
囚人たちが美しい夕焼けに感動するシーンが出てきます。

この「世界は何て美しいんだ」の場面は
作中の名場面として
さまざまなところで取り上げられているようですが・・・


この場面だけ強調するのはどうなのかな?と思います。

「絶望の中の希望」について語るのは結構なことですが
肝心カナメの絶望をくわしく紹介することなしに
“希望”のところだけクローズ・アップしているような印象がぬぐえないからです。

強制収容所は、人間がその極限の姿をあらわにしたところであり、
一方の極限を強調するなら
もう一方の、数としてははるかに多いはずの極限も
同じくらい強調しなければならないでしょう。

もっと見なければならない、見たくないけど見なければならない
人間の極限の姿が山とあるはずなのに。


それは醜い姿です。暗黒そのものです。

多くの証言にあるとおり
弱い者たちがお互いを喰い合うようにして生き延びていた、というのが
強制収容所の現実であるなら
およそ、そこにいかなる希望を見出すことも、私にはできません。

そして、99対1の割合ぐらいで
美しい魂の触れ合いがあったとしても
それで残りの99を救うことはできないと思います。


前述の「世界は何て美しい」の場面にしたって
その場にいた彼らが、日常的にはお互いの生命を侵し合っていた事実を
消すことはできないでしょう。


「夜と霧」の中には
人の心が破壊されていったありさまだってしっかり書いてあり
そちらの方も同じくらい重要だし
共感する人だって少なくないと思いますよ。


(実際、一部ではフランクルの道徳主義に対して批判もあるようです。
強制収容所で起こったことは、およそ日常的な道徳など遥かに超えた領域にあり
あったことを「あったこと」として証言する以外にない、
そこに道徳を持ちこむのは前提がおかしい、というんですね。)


フランクルの「夜と霧」が
収容所文学で特にポピュラーであるのは
前述の「世界はなんて美しい」のような
読む人を慰めてくれる場面があるからかもしれません。


しかし、もし、そこばかり受け取って
「ああよかった」と安心するとしたら
それは見たくないものから
目をそらすことになるのではないでしょうか?



さて、例が長くなりましたが
フランクルについてはここまで。

いや、別に「夜と霧」について書くのが目的じゃないので。
ただ、今回のテーマには申し分ない例だったので
収容所文学でことさら強調される“美談”に対して
そうではない9割9分の部分を
ちょこっと強調してみたまでです。


次回、その「希望を持つことへの強制」に
疲れてしまった私が
ブラック・サバスの世界に出会ってどう救われたか。

「ペシミズムの救済」とはいかなるものか、
についてお話します!

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