『われ、深き淵へ』制作秘話3・キャラクター(ペト編)

先日、無事に全七回の連載が終わりました
『われ、深き淵へ』。
お読みくださったみなさんにはあらためて深くお礼申しあげます!
ありがとう!ありがとうございますっ!!


今回はキャラクターの解説編です。

ペト・13.3.30
Ⅰ:ペト




最終回まで無事にUPできたので
ようやくペトの正体について書けます(笑)。
ようするに、私がずっと前から描いていた黒天使のアッシュエルです。
“救いが見いだせない人/場所にあらわれる天使”。
作品のテーマにはぴったりでした。

振り返ってみると、
ここまで徹底的に迫害される天使というのも
なかなか刺激的だったかなぁ・・・



そうそう!

本来ならアッシュエルには右目がないのです。
翼も片方なかったりします。


↓このとおり。
元旦用筆のすさび1 名前入り
今年の元旦にUPした「筆のすさび」より)



あとこちらは油彩。
なつかしいな~・・・2010年の絵だわ・・・

我が現代の天使 11.3.
【“我が現代の天使”  2010年 油彩 F50号】


しかし、そこまで厳密には描きませんでした。
作品の中で
本筋とは関係ない説明をする必要が出てきてしまうので・・・笑




さて、
それではなぜ、“世をしのぶ仮の姿”を
旅芸人にしたか。




まず、旅芸人というのは
社会の中で一番立場の弱い存在だ
ということ。
それだけに、
彼らに対する態度で人の真実の姿が試される――とも言えるわけです。


また同時に、
人間の“心のゴミ捨て場”にさせられる役割でもあるということ。
強者の悪はもちろん、“弱者の悪”が
こういう人たちに対してあらわに出てくるんですね。


虐げられた者が、
自分よりももっと弱い者を見つけて、
彼らを虐げることでうっぷんを晴らす。

こりゃーもう、人間の普遍的な現象です(笑)。


それが何だか、
ペトの正体である“聖なるあの存在”のイメージと
似ているような気がしたんですよ。
ひたすら自分を捧げて、自らは何も欲しない。



もっともいやしめられた存在に、
もっとも高いところにいる存在が身をやつしている――

というパターンは、けっこうあります。
おとぎ話や宗教的な説話に。

たとえば、聖マルティヌス(騎士の聖人)が
裸で寒さに震えている乞食にマントをあげたら
その乞食が実はキリストの変身だったとか。

仏教説話では、
忌み嫌われた病者をあわれんで世話をしたら
病者はたちまち光を発して観音菩薩の姿をあらわしたとか。


一種の神話であり、現実的にはありえない話ですが
こういう話によって
「神や仏はどこでわれわれを試しているか分からないから
人には親切にしましょう」と教えているわけですよ。


ただ、実際にはその教えが生きているとは言い難いですけれど。
だいたい、こういう話が時と場所をこえて語られているということ自体
いかに現実はそうでないか、の例証みたいなものですよね。



神話と現実の違いについては、
試されているわれわれの側だけでなく
神や仏が化身している側についても言えます。

この劇画では、
旅芸人の正体は本当に天上のものですが
現実において、虐げられた人・弱い立場の人はあくまで「人」です。
そのせいで根性がねじくれてることだってあるでしょう、当然。
昔の私みたいにさ(笑)。

中には
怨恨や心の傷をのりこえて、
本当にすばらしい成長を遂げた人もいるでしょうけど。


ときどきあるカン違いだと思うんですね。
虐げられた人を、たったそれだけの理由で
やたらと神聖視してしまうこと。
「彼らはこの世の悪を背負っている聖人だ!!!」みたいな(笑)。


私はそういう見方はしませんよ。
そこまで、人間に対して楽観的にはなれませんわな。
(なんかね、虐げるか生き仏にするかしかないのかな?
その中間の捉え方はないのかしらね。)



どんな経験をしようとも、
そこから何を引き出すかは個人個人の問題です。
だから、ある特定の立場の人が
そろいもそろって仏のごとく善良だなんて、ありえません。
まして、その立場にいるというだけの理由でね。

いえ最初、似たようなことを書きましたよ。
『ペトの正体と仮の姿が似ているように見えた』――とね。
でもそれは、あくまで私の思い入れ
そこから、「実際にどうであると思うか」にはずいぶん隔たりがあります。

第一、神話ですし。


話を元に戻しましょう。



ペトの正体と、
仮の姿との類似についてでした。

もう一つの理由は、

決まった家も財産も持たない旅芸人のイメージが、
どこから来てどこへ行くのか(人には)分からない
「それ」の仮の姿としてぴったりだった
から。

大道芸やサーカスには
日常をはなれた雰囲気があります。
ひとときの夢を体験して、また日常へ戻っていく。
そして芸人さんたちは、知らないうちに別の町へ去ってゆくのです。

本作のペトもまた、最後は群衆の中にまぎれて見えなくなります。

彼にかかわった人々の心に
痕跡だけを残し、
どこへともなくいなくなります。




私が考えている劇画、
“天使もの”だけで10作以上軽く行きそうなんですが(マジで)
今回の『われ、深き淵へ』は記念すべき第一作でした。

しかし“天使もの”なのに
明らかにその姿で現れるのが全体で3コマくらいしかないという(笑)。
けっこうギリギリまで引っぱりましたね。


ただしペト(実はアッシュエル)が正体をあらわすまでに
「あれ?」と思わせるシーンをいくつか入れたつもりです。

どことなく人間離れした雰囲気とか、言動をね。

彼が最後まで自白を拒否し続ける(=他人を巻き込もうとしない)こともその一つ。

また、牢獄の中で大道芸をするシーンもそうです。
普通だったらそんな余裕はないはずなのに。

手持ちのものを使って
人を楽しませるシーンを描いたのは、
もしかしたらチャップリンの映画とか、影響を受けているのかもしれません。
自分でそう思います。

チャップリンの映画には
パンとフォークを人の足に見たてて卓上ダンスをするとか(『黄金狂時代』)、
ブラームスの『ハンガリアン舞曲』にあわせて
床屋が客の散髪をするとか(『独裁者』)、
そういう場面があるんです。


なおこの大道芸のシーンでは、
写真家の森直実さんが撮影した写真を
参考にさせていただきました。

森直実さん、ありがとうございます。

森さんのホームページはこちら↓
http://naomi-mori.main.jp/


さて、次回の解説編はキャラ編の第二回です(予定)。
引き続き、よろしくお願いいたします☆
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