『われ、深き淵へ』制作秘話4・キャラクター(カタキ役編)

『われ、深き淵へ』の解説編、
今回は作中に出てきたカタキ役編です(笑)。

Ⅱ リード隊長と部長

リード&部長



今回の作品では、ワタクシめ
重いテーマを描くときのジレンマっつーものを
大変強く感じておりました。

こいつらを描きながら(笑)。



テーマが「救済」ということなのですが――
救済を描くためには
それがない状態をまず描かなくちゃいけないんですよ!


しかも、ただの救済ではなくて
“もっとも悪い状況での救済”

ですからねぇ。


救済の形がアイデアとして決まった時点で
かなり過酷な内容になるだろうな、とは思っていましたね。
オーソドックスな
「天使が天から降りてくる」的な話がありえないのですから。

ありえないのなら
聖なるものによる救済はどんな形になるか。
結果的には、「迫害される側の中にこそ存在している」
という形になりました。



そして物語の中で
迫害する側にいるのが彼ら二人。

↓とにかくイジメる!イジメ抜く!!

深淵(部分)4.3-1
第二回より)


深淵410001
第四回より)




この二人が体現している「人間の悪」には
大きく分けてふたつあるんです。

ひとつは見ての通りの、人を痛めつけ、生命を奪うこと。



もうひとつは、
そんなことをしていながら心の痛みを感じないということ。
ご丁寧にリードは、あとで部長に報告するとき
「処置」という言い方をしているんですね。
「殺した」とは言わない。

良心の麻痺、苦痛への無関心、いろいろな言い方ができます。

いや、苦痛への無関心というのはちょっと違うかも。
だって彼らは、相手が苦痛にさいなまれていることを
ちゃんと知っているんですから。
知りぬいているのです。


しかし、そのことを何とも感じていない。


自分のやっていることの重さに気付いていないのです。

知らないうちに天使を惨殺してしまう恐ろしさ。
気付かないことの怖さ、愚かさ。


リード隊長と部長が体現しているのはまさしく、
「罪の意識をもたない」こと、それ自体の罪です。



もしかしたら
この「罪の意識の欠如」こそは
すべての元凶と言えるものかもしれません。


私は遠藤周作の著作をけっこう読んでいた時期があります。
(マニアと言えるほどじゃないけど)
今でも時々読みますよ。

やはりというか、
キリスト教つながりということで
どうしても気になってしまうみたい。


遠藤氏の初期の作品ではよくテーマになっていました。
日本人には罪の意識がない、ということ。
『黄色い人』とか『海と毒薬』とか、特にね。


ここでは一神教的な神をもたないことの問題が描かれています。
「悪いことは悪い」という考え方ができない、という問題です。



私がどうにも引っかかったのは
これはなにも日本人に限ったことじゃないよなぁ・・・
ということでした。

私もまた、幼少期にキリスト教教育を受けて育ちましたけど
その上でもやはり「そうなんかい?」という感じでした。


神を持たない人間が「罪の意識を持たない」ことが
もし当たっているとしても
神を持つ人間もまた、「罪の意識を持たない」ことが
山とある
からですよ。

糾弾されるべきは日本人だけじゃないでしょう、
罪の意識のあるなしが問題だったら。

スペインの異端審問官だって敬虔なクリスチャンですもん。


神があろうとなかろうと
一神教だろうと多神教だろうと
人間とはそういう生き物なのだ、と。

これが私の考えです。



もっとも遠藤氏の場合
「日本人にとって、神とは何か」がテーマでしたから
ことさらに「日本人」をクローズアップしたのかもしれませんけれど。



で、
そういう人間の心を揺さぶって
心に「やましさ」を呼び起こすのが
本作に出てきた天使なわけです。




旅芸人のペト(実は黒天使アッシュエル)は
最後まで反逆罪を認めずに殺されてしまいました。

ペトが死んだあと
リードの“報告”を聞いている部長が
なんとなく動揺しているのにお気づきになったでしょうか。
リードにもそれがつたわります。


ペトの存在と死は、2人の心の中にささったトゲとなるのです。


あまり声高になるのもなんかイヤラシイんで(笑)
このあたりは抑えられるだけ抑えて描きました。
それでも、まだちょっと表現しきれなかった感じもあるから――

ことによったら番外編を描くかもしれないです!
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