私が生き延びた理由(わけ)

まえに「私がグレなかった理由(わけ)」という
記事を書きました。

いわゆる非行に走るような状況は
いくらでもあったのに
なぜかそうしなかったのはなぜだったか。

それを自分なりに分析してみた記事です。

「私がグレなかった理由」
 「私がグレなかった理由 後篇」


今回はその第二弾で
さらにもうちょっとツッコンだことを。




「私が生き延びた理由(わけ)」というのは
とりもなおさず「自殺しなかった理由(わけ)」です。


今、巷で自殺が、
ことに子供の自殺がいろいろと言われていますね。
それで私も
自分の子供のころについて思い出してみました。



死ぬことを考えたのは何回もあります。
ありますというか、
それを考えるのが日常でした。

私が自殺を考えなくなったのは
ほとんどここ2年くらいです。


(これはちょうど、アーティスト活動が
軌道に乗り始めたころと一致しています。)


ただ、
死を考えた理由や状況が
子供の頃と成人してからでは
だいぶちがっています。

ここでとりあげるのは子供の頃のこと。


こっちの方が
いま、問題視されている自殺に
ずっと近いからです。

近いというか、
私もその子供たちの一人になるかもしれなかったので。




成人してからのそれは
ほぼ完全に私の内面の問題。

おそらくそこにも、
積み重なった過去が
だいぶ影響しているんでしょうけれど
主な原因は私の脳の構造によるものだと思います。

なので、ここではとりあえず除外しておきますね。
(生き延びた理由に
 まったく違うものがあるわけでもないのですが・・・)



生き延びた理由 その一

死ぬことに希望が持てなかった



死を選んでしまう理由には多くありますが
その中に「死をもって何かを訴える」ことがあります。

死をもって抗議するとか、特にね。

私もそれを考えていました。

ところがね、
もういっぺん考えてみて気付きました。

“自分が死んだところで
 訴えたいメッセージが受け取られる可能性は
 なにも期待できない”


ということに。


死をもって抗議したい相手は
何人もいましたよ。
ところがね、
その相手が果たして自分の死をどう受け取るか?
を考えてみたら
こちらが期待するような反応はとても返ってこないだろう、と。


そりゃ、最初のうちは大騒ぎするかもしれない。

でもちょっと騒いで、すぐおしまいですよ。
そうとしか思えなかった。

いや、騒ぐことすらないかもしれない。



クラスで迫害されて死を選ぶ、というニュースは
私が子供のころから流れていたんです。
そして、そのずっと前からも。


にもかかわらず何も変わっていない。

子供たちはどんどん大人になり
学校にいる子供たちはどんどん世代交代していき
それでも、問題だけは依然としてそこにありつづけている。


これをもって結論するに
死を選んでもメッセージが伝わらない、ということなんだな、と。


それで、
死んだところで意味はないと思ったのです。


さらに、死んだら抗議することもできない、ともね。


死んで忘れられるくらいなら
生き延びた方がずっとマシ。

そうすれば証言者にもなれるでしょう。


しかし、死ぬことにすら希望が持てないって(笑)。

もう、どっちがより救い難いのか
分からなくなりますねぇ。




生き延びた理由 その二


その日一日を生きるのに全体力を使っていた



生き延びた理由の一つには
死ぬことを実行する余裕すらなかった、というのがあります。


私は二十数年間、
つねに自殺を頭のかたすみに置いていました。
にもかかわらず
最終的には未遂事件もなにも起こさなかった。

それには、おそらくこの理由もあります。



いざ、死のうと考えるには
かなりの時間と体力・気力が必要なんです。


まず、死のうかどうしようかで悩む。

次に方法で悩む。

発作的にやろうと考えても
たとえば、いま電車に飛び込むことと
飛びこまないでおくこととの間に
いかに大きな隔たりがあるかを感じます。

飛びこむ瞬間に全世界が集約されているんだな、と感じる。

自分が持っている全世界・全人生をすてる。
そのことの重さを考えると、やっぱり私は萎えました。



死のうかどうしようかで
何時間も悩み続ける余裕もありませんでした。


なぜかというと、
日常生活をできるかぎり平穏にすごすことに
必死だったから。

死のうかどうしようか悩み始めても
それよりも明日の授業の準備しなきゃ!となる。
そっちの方がもっと近い問題でしたから(笑)。

ただでさえ日々、大変なのに
これ以上問題が増えたらかなわないからね。


そうやって、
とにかく一日だけやりすごそうと
考えているうちに
なにも実行しないまま時がすぎたのです。



「生き延びた理由」について
とりあえず、浮かんだことを書いてみました。
もっとほかにもあるでしょうね。


おことわりしておきますが、
私はこの記事で
誰に何をお説教するつもりもありませんよ。

ただ、追いつめられた人間の
心理状態として、
自分でまとめておくのも
それなりに価値があるだろうと考えてのことです。


なお、今回の記事では
私の心理をメインに考察しているので
私にとって助けになった人たちのことは書きませんでした。
その人たちへの感謝の念は
決して忘れていませんので、念のため。

テーマ : 生きること - ジャンル : 心と身体

コメント

No title

理性的に自殺したくなる事と、本能的に自殺したくなる、場合とで大きな境があるんじゃないか、と思ってます。

理性的な段階であれば、いろいろ「死ぬのは嫌な理由」などが見つかれば、それは理性で踏みとどまれるのではないかと。

これが本能のスイッチが入ってしまうと、もう「死」について考える事、行動する事が気持よくなって来てしまうらしいのですよ。
人間、目的と達成感と快感を得るためなら、すごい情熱を傾けて頑張ってしまうじゃないですか。エベレストに登っちゃたり、アイドルにすごいお金つぎ込んだり。

そういう情熱が、「死」に対してスイッチが入ってしまう人が、実際に自殺してしまうらしいんですよね・・・。何かの本で読んだんですけど。

Re: No title

なるほど~!
死に接近する心理も深いですね。

苦痛からの逃避や何かに対する抗議だけでなく
それについて考えることそのものが心地よくなる・・・ですか。
死ぬことが喜ばしくない、というのはまだ良い兆候なのかも。

本能のスイッチの話は興味深いです。私自身、とても共感する話ですので。
そう考えると、そのスイッチが別の方向に入っていたから、
生き延びることができたのかもしれません。

ただ、“目的と達成感と快感を得るためにエネルギーをついやす”ことに疲れ果てて
死にたいと思ったこともあるので(笑)
なかなか複雑ですね、実際。

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