私が生き延びた理由(わけ) 4

はい、第四弾です(笑)。
まさかここまで書くとは思いませんでした、私自身。

昔の自分の心理を思い出して
書いているうちに
話が発展していっちゃって

「生き延びた理由(わけ)」だけではなくなってきてますねぇ。

でも、便宜上このタイトルのままで行きます。


今まで書いてきたようなことを
私はほとんど、誰にも話したことがありませんでした。




このたびのブログ記事がはじめてなのよ。
だれか、他の人に
「死を考えつつも生きていた」自分のことを発信するのって。


なぜ言わなかったかにも
また理由がありました。
当時はここまで落ち着いて考えてはいませんけど、
今になって分析してみて「こうだったからだろう」と思えることがあります。



まず、人に期待していなかったからですね。


これは「生き延びた理由」とも相通じるところがあります。

自分が死を選んだところで
他の人たちの反応になにひとつ期待が持てない。
それで、なーんだイミないじゃないの――となる。


それと同じことが、
「死にたい気持ち」を誰にも話さない理由になったのです。


一体、誰にどういう反応を期待して
「自分はつらい、死を考えることもある」なんて言えるのか?
そう考えたら言う気がたちまち失せました(笑)。

ようするに、話す相手もいなかったのですよ。




ただ、反応以前に
そういうことをしゃべりたくないという気持ちもありました。


なんていうのかな、
人を感情のはけ口にしたくなかったんです
どんな人でもね。



こういう話ができる相手って
やっぱり自分にとって信頼できたり、
優しくしてくれる人だったりするわけですよ。

そういう人に解決不能な心の痛みをぶちまけて
いったいお互いに何があるというんでしょう?

聞かされる方はたまんないよ、と思いましたしね。


その人の存在をありがたいと思うから
なおさらできなかった。
私の心のゴミ箱になるために
その人がいるわけじゃないもの。


まあ立派なことを書いているみたいですが
親に対してはつい、
そういうノリになっちゃう時があって
「よく聞いてくれたなぁ・・・」と恥ずかしくなったりしましたよ。




話さなかった理由はまだあります。


それはね、
話しても信じる人がいないからです。


物ごころついたときから
なぜか私は「明るく元気で幸せな子」ってことになっていました。

父も私を、幸せの子だと言っていました。


私もそうしなけらばならないと思い、
つらいことがあっても
なるべく顔に出さないようにします。

アトピーとか発達障害とか、いろいろ問題はかかえていても
極力そういうことは表に出さないでいました。
人前に出るときはいつも笑顔で、明るくしていました。


でもね、
そうやっていると
だれにも真実が伝わらないんですよ(笑)!




何かの拍子に自分の本心を打ち明けても
「何いってんの~♫」で済まされちゃうんですよねぇ。
これ、誰に対しても、たいていそうでした。

私の母も、よくお母さん友達なんかに
「安藤さんの子なら大丈夫よ~」と保証されちゃったんだとか。

何が大丈夫なのか分かりませんが(笑)。



たぶんこれ、
私自身もそう思わされていたんでしょうね。

人の心ってのは不思議なもので
「明るく元気な子」を演じているうちに
本当に自分がそうであるように錯覚してゆくんです。



もちろん、
自分が恵まれた環境にあることは理解していましたよ。

だって、家も食べ物もあるし。
頭の上から爆弾が落っこちてはこないし。


でもね、いま考えてみれば

家も食べ物もあっても
紛争地に生まれていなくても、
子供が自らの死を願う状況というのは
あきらかに異常なんですね。



当時はそれが分からないから
ひたすら黙って「明るい子」になりきっていました。
こういうケースって実は多いんじゃないかなぁ・・・

つらさを訴えても信じてもらえないって
これ自体、かなりつらいですよ。



まあそんな風だったから、
いつしか人にしゃべることもなくなりました。





このシリーズ(?)を書いていて思い出したことがあります。

死を考えている人に
どれほど普遍的な気持ちなのかはわかりませんが・・・

絶対に言われたくない言葉というのがあります。



それは、
戦争や飢餓を引き合いに出して「死ぬな!」と説教されること。


言われなくたって、
こちらはそういう現状があること(あったこと)を知っています。


しかし、そういう話を持ち出すことは
意味がないばかりか、
言われた本人をもっと追いつめることです。
すくなくとも私個人はそう感じてしまいます。



「世界にはこんな不幸な人もいるんだから」
と言われることは
「あなたの苦しみなんかどうでもいい」
といわれているのと同じことなんです。


そこには、
自殺した人の多くは殺された人だ、という視点が
すっぽり抜け落ちているように思えます。



世界にはいろいろな形で
命を軽んじられている無数の人がいる。
それは知っています。


でもそういう励まし方(?)をする人に
言いたくなるんです。

あなたの前にいる人だって
まさに、誰かによって命を軽んじられているところなんですよ――と。


そういう状態にある人が
戦争や飢餓の話を聞いても、
「世界のどこでも同じなんだ」と思って
絶望がふかくなるだけではないでしょうか?

昔の私がそうだったように。


世界の現状とか歴史の話とかで
「ああ、自分は生きなければ!!」となるのは、
本人がそう目覚めることです。
誰かによって説かれることではないと思いますよ。



・・・ま、こんなことを考えるから
話そうという気持ちがなくなるわけですよ。

だってそうでしょ、
「言われたくない言葉」があるくらいなんだから。

もし「言われたくない言葉」を口にされて
相手に腹を立てるくらいなら、
最初から自分が黙っているべきだと思っていましたね。



かくしてずっと黙っていましたが
いまようやく、こういう形で発信しています。

もしかしたら、
これを発信するために生きていたのかもしれないですね(笑)。
長期的に考えた場合。

テーマ : 生きること - ジャンル : 心と身体

コメント

No title

この事を発信して頂いて、私個人はすごい共感出来ましたし、いろいろ教わる部分もありました!!
本当にありがとうございます。

私もこれほど深くはないですが、こういうシリアスな事が頭にあっても、人に話す、なんて事は無かったです。きっかけも無いですし。
私の場合だと親に話すなんて事もありえないです。

「死ぬな!」と説教されること・・・は、私も似たようなケースで励まされたりすると、ただただ、「理解してくれてはないんだな」と思わされる事はよくありました。
でも、仕方ないのかな、人間ってこういうものなのかな、とも思います。「相手を理解出来ないことすら理解できてない」人もどうしても居てしまうものと。

けど、中には、そんな残念な言葉の中にも、「理解はしてくれてないけど、心配はしてくれてる・・・ような、気がしなくもない」ぐらいは伝わる事もあったり(笑)

Re: No title

kotatsuさん
こちらこそ、毎回コメント下さってありがとうございます。

シリアスなことは、なかなか人に伝えにくいんですよね。
その場にいて切羽詰まっている時って、
人に伝わるような、うまい言い方まで見つからなくなりますから。
私はそれを「言語喪失の状態」と呼んでいます。

お説教の話はね、よくあることかもしれません(苦笑)。
励ますつもりで言ってくれている言葉なのでしょうけど。
だからなおさら、「そうですね」としか言えなかったり・・・

でも、死に接近していた人間としては
「そういう言葉をどのように感じるか」を一度は書いておきたかったのです。

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