なつかしさの秘密を探る

岩崎ミュージアムの展示について書くのは、
たぶん今回が最終回になるでしょう。

こちらの作品も共感覚シリーズの一点です。


沼に飛ぶ魂0001
【“沼に飛ぶ魂”  2012年 油彩 サムホール】


この作品についても「なつかしい」という感想が
多く寄せられました。
「どこかで見た光景だ」
中にはなんと「まったく同じ光景を夢で見たことがある」
という感想まで。




これは死後の世界、もしくは
人間が心の中に持っている暗い沼のイメージで描きました。


最初に描いた水彩版がこちら。


沼に飛ぶ魂(水彩)0001
【“沼に飛ぶ魂”  2012年 油彩 約14×17センチ】



今回、よくあったご感想「なつかしい」について
もう一度深く考えてみたくなりました。

しばしお付き合いください(笑)。



私の作品がかもしだす「なつかしさ」の秘密。
もしかしたら、“人の心の根源的なところに触れているから”
なのかもしれません。

そうだとしたら喜ばしいことです。



なぜなら私が、
制作にあたって、“外の世界で起こった現象”を
追いかけたことがないからです。


描くべきものは自分の中にあって、外にはないということ。

いままでずっと現象ではなく、
その根源について考えて来ました。
すでに起こった出来事を追いかけて、ではなく。


現実に起こった出来事を
追いかけて描いたことがない、というのは
あきらかに共通の過去であるモチーフが
画面にあらわれない
、ということです。


たとえば
実際に起こった特定の出来事を描いていれば、
「あーあのとき、自分はこんなことをしていたな」
と思うでしょう。

また、学校や公園の光景を描いたら
自分の子供の頃を思い出したりするでしょう。


私の描く作品は
そういうモチーフとはかなり離れた所にあります。




それにもかかわらず、描いた世界を共有することができた。



私の絵は何度も
「震災の影響を感じる」といわれてきました。
モノクロに近い画面や、廃墟のイメージや
傷ついた天使とか、特にね。

でも実際には、震災の前からこういう絵を描いてきました
震災の後に描いた絵でも
ネタが浮かんだのはその何年も前
、なんてことはザラにあります。


2011年の震災の後になって出てきた
リアルな終末観、
漠然とした不安感、
それまでなんとなく信じていた“日常”が
実は非常にもろいものだという感覚、などは
それ以前からずっと、私の中にあったものです。




天変地異にしても戦争にしても、
それこそ人間の歴史とともに
数え切れないほどありました。

そのときの人間模様や
その出来事を見て人が感ずることは
違っていながら似てもいます。

個々の出来事によって
まったく独立したものでありながら
それでもどこか共通したところがあるんです。

しかし、その中にいた個人個人の体験や思いは
あくまで個人のものであり
それらの総和は全体と同じではありません。



このあたりをうまく言い表すのはかなり難しいです。

簡単に言ってみれば
人間を紋切り型で描くことだけはしたくない、ということかな。
「辛い現実に負けずに生きた、清く正しく健気な人々」みたいには
描きたくない、ということ。


このあたり、絵画よりは
むしろ劇画で表現できることなんです。

キャラクターをどこまでも「個人」でとらえたい。
ある場所、ある時間、ある状況に置かれた人の姿は
千差万別であるはず。
それがかえって普遍性につながったりするのです。


私はこのように、
現象を追いかけるのではなく
その現象の背後にある人間を見たいと思ってきました。


そのせいかどうか、
画面の中には“現実の世界にあるもの”、とくに固有名詞は
一切出てきません。
意識してではなく、自然にそうなるのです。


私のそういう意図は
どうやら成功しつつあるらしい。
今回の展示で寄せられた「なつかしい」という感想で
ちょっぴり自信がつきました。
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