光はいずこから

もう8月になってしまいましたね。
早すぎだわ・・・

なにせ、7月の一ヶ月間がたいへん早かったので。
でも濃い日々を送っています。

岩崎ミュージアムの作品展『プルガダイス・その世界』が
無事に終わってからいままで
来てくださった方の一覧表を作っていました。
お礼状の宛名・住所のためです。

今回はことに、はじめて作品展に来た!という方が多かったですしね。

そのリスト制作、ようやく一段落しそうです。
これでお礼状書きに一歩近づけました。


さてこのたびの記事は
私の作品にあらわれる“光”についてです。


ヒイナ(岩崎Mu)
【“ヒイナ”(劇画作品によるイラスト)  2013年 水彩・インク B5】



これはただの明部、ライトというよりは
むしろ象徴的な意味でとらえたほうの光。


よくあるご感想について
作品展のご報告で書いてきましたが、
今回取り上げるのはこの感想。

「一見すると暗いけれど、じっと見ていると光を感じられる」。

天使ものについて書いた記事で
一度でてきましたが、
あらためてクローズアップして書いてみようと思います。


最初に一言で書くと
私の絵に光があるとすれば、
闇を闇として受け止めたあとに、ようやく見える光です。


それは逃避も、中身のない希望も、なぐさめも
一切シャットアウトしたあとのもの。



じかにお話しできた方々にはお伝えしてきましたし、
本ブログでも何度か書いてきましたとおり――

私は私なりに人間の闇を見てきました。
そして、そこにいきなり希望を見出すことは、どうしてもできなかった。



見るもの聞くもの、ほとんどが
暗澹とすることばかりであるときに
なぜ、そこに希望なんか見えるのでしょう。

(『廃墟の中の希望』なんて、どこにあるの?という話ですよ)


100のうち99までが闇であっても
残りの1がよければ、それで99の闇を帳消しにできるのでしょうか?



私はそうは思えないのです。



私は性善説を信じることができないし、
昔から、そして今でも、人間の持つ闇の深さに呆然としています。

そこには希望の差す余地はありません。


闇の深さ、重さをはっきりと認識したら
そこにあるのは沈黙だけではないでしょうか?

私の絵に、もし光があるとすれば
その沈黙の向こうにようやく見える光だと思います。
闇の重さを認識しないところに、本当の光は見えない。


そう思っているからこそ、
「闇の中に光が見える」という言葉がとても嬉しいんです。




また、私は自分の絵について
次のように考えています。

自分の描く作品が、
どこかのだれかにとって救いになり得るか――
ということですが。


私は「何の救いにもならない」という覚悟で描いています。


誰にも、何の役にも立たないかもしれないけれど
それでも描かずにはいられない。
こういうギリギリの覚悟で作品に携わってきたし、
これからもそうでしょう。



逆に考えてみると。

いったい、「自分の作品がだれかにとって救いになる」なんて
信じられるものなのかしら?
それが疑問なんです。

もしそう思っていたとしたら、
それこそカン違いであり、驕りなのではないでしょうか。



これが花とか、美しい風景の絵とかなら
まあ別ですよ。

でも私のような作品だったら。
明るいとは言い難い、
ことによったら考えたくない問いかけをするような絵だったら。


私が描くのは自分自身の救いのため。
仏教でいう「利己」と「利他」の思想に
私は深く共感するのです。


「自分を救える人間こそが、ほかの人を救うことができる」
という教えです。


ここで救いと言ったって
べつに極楽に行くとか、そういう意味じゃありませんよ。
簡単にいえば、心がもっと楽になりたいという意味。

すでに受け入れたはずの辛い出来事とか、
思い出したように心にまとわりつくオブセッションとか、
そういうものから楽になりたいんです。


まずは自分自身を救うこと。
私はまだ、この出発点にようやく立ったところだし
自分を救うだけでも大事業であることを痛感しています。

そして、自分を救えるのは自分だけだと信じているのです。
誰かに救ってもらえるのを待っていたら、いつまでたっても救われない。



だからこそ、私の作品を見て
「気持ちが楽になった!」「自分の考えていたこととぴったりだ!」
という人がいたら嬉しいんです。

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