ロマンチックな狂気と現実の狂気

この世界は“こちら側”の世界として
成り立っていて
そこから見た狂気の世界というのがあります。

恐ろしい悲惨な状態、という認識でありつつ
かぎりなく文学的でドラマチックにとらえられることもあります。

私が思うに、これは多分にフィクションじゃないかなーと。
(当たり前だろ・・・と思われるかもしれませんが、
 この創られたイメージが意外と、現実の判断に影響していたりするのです)



文学で発狂といえば
『ハムレット』のオフィーリアがあります。

恋人に父親を殺されて発狂して
自分が何をやっているのかも分からずに
歌いながら小川で溺死・・・

・・って、こんな麗しい狂気があってたまるかい(怒)



麗しくない、現実の狂気を抱える私としては
ついそう思うんですよ。


実際だったら、恋人への愛憎で七転八倒して、
一人でさんざん泣いてわめいて、
人に迷惑をかけちゃいけないと思いつつ
誰かに会えばつらい気持ちを話さずにいられず、
最初は可哀そうにと思っていた人にすら
ウンザリされて、
自分がいかに迷惑をかけているかを痛感しながら
それでも訴えるのをやめられない・・と、こうなるはずです。


これは自分の置かれた状況、
自分がやっていること、苦しいこと、
これらをいやというほど認識しないとできないことです。


自分のこともわからないくらい
狂ってしまうまでに
グラデーションの長い長い灰色の領域をさまようんです。
歌いながら溺死するとしたらその後ですよ。

いや、重要なのは
もしかしたら、そこまで行くことすらできないかもしれないこと。


この「発狂しきれない」というのは
おそらく一番救いがない。


完全に狂ってしまったなら
文学のネタにもなるかもしれませんが、
グレーゾーンをひたすらさまよう姿は
シェークスピアだって美化のしようがありません。

(念のために書いておきますと、自分のことも言ってます)



狂気のイメージって
あまりに文学的でドラマチックなのが多いんですよね。
それだけに、
「完全に向こう側に行っちゃった人」の創られたイメージが
強すぎるような気がします。


でも本当は、そんなにクッキリ分けられるものじゃありません。
一足飛びにオフィーリア状態になれたら
むしろ本人だって楽ですよ。そのほうが。





「向こう側に行った」ことを
いかに判断するかはこれまた難しいです。


とりあえず、
「自分の異常さを認識できるか否か」は一つのポイントでしょうね。

しかしこれだけで「こちら側」とは言えないのです。

こちら側と向こう側の間にいることを
けっこう本人が認識していたりするものです。
ところが、認識しつつもどうにも治せない。


そのジレンマそのものに耐えられなくて
それがまた“まともな”状態から遠ざかる原因の
ひとつになることさえあります。

(なぜ断言できるかって、
 私がそうだからです)

そして、作られたイメージほど狂気は麗しくない。
正気の世界で考えられているようにね。
麗しくないと同時に、正気の世界ともしっかり地続きなんです。

テーマ : うつ病(鬱病)、メンタルヘルス - ジャンル : 心と身体

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