美談を描かない目

――「見ない」のではない。「描かない」のだ。――

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・・・なんか、えらく気おった始め方になっちゃいましたけど
そんなに御大層なものではないので安心して下さいね。

これは、私が作品を制作するときのスタンスだと思って下さいませ。


油彩や水彩といった
一点ものだけ手がけていたころはともかく、
劇画を描くようになって
いよいよこのスタンスがハッキリしてきた感じ。




私も数十年を生きてきて
まがりなりにもいろいろな経験や考察を積みました。


俗に言う“いい話”をすべて拒否するほど
ひねくれた時期は過ぎましたし、

さりとて“いい話”を聴くたびに
パブロフの犬状態で泣けるほど
単純素朴・純粋無垢にもなっておりません。



私の作品は「人間」への探求が
全体的なテーマとなっているんですけど、
そのテーマだと必然的に
人間のあらゆる姿を視野に入れるようになるのです。

直接・間接の体験によるものもあれば、
そこから想像したものもあります。


さっきもちょっと書いたとおり
ことに劇画はその性質が強い。

というよりは、土台がそもそもソレなんですね。



哲学的に言えば一種の思考実験ですよ。
「こういう状況に置かれたとき、人間はどうするか」という。

それは単純に“いい人か悪い人か”と分けられるものじゃない、
と思います。



美談というのはたいてい
次の構図で生まれます。

過酷な状況+いい人=人間の善のあらわれ



実際、こういう事例があることは
私も知っていますし
それこそいい話だとは思います。

ただ、私はこの構図から
はじき出された人の方に
より関心がある
のです。

もしくは、ある事例において
この構図にあてはまった人が
その事例から離れたところでどうだったか。




私はよく強制収容所のことを
考えますし、
本ブログでもたびたび書いてきました。

これもまたよく「美談」が語られることの多い題材です。
ただ、私の目はそれだけで終わらないのです。


次回はこのことについて書いてみようと思います。
(途中で別の記事が入る可能性あり)
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