聖者ではない人たち~美談を描かない目 其の三~

花14326

――「見ない」のではない。「描かない」のだ。――

はい、ちょっと間をおきまして
『美談を描かない目』戻ってきました。


この『目』は“美談から抜け落ちたところ”を
より多く映し出す目です。


その目の持ち主が、
“美談があまりにも強調されると
それ以外の部分が見えなくなる”と思っているからです。

私が今回、考えるのは
「美談を拡大することのあやうさ」です。


美談ばかりが伝えられる結果
まるで、ある事件の当事者がみなそうであったかのように錯覚してしまう。

こういう危険性はないでしょうか。

犠牲になった=崇高な善人だった、というのは
あまりにも単純化してはいないか。

そしてこれは、
かえって当事者に対する冒瀆ではないか。




たとえば強制収容所の犠牲者。あるいは生存者。
(毎回この例ですみませんけど、
これほど適切な例も珍しいので)


コルベ神父のような聖者も実際いましたよ。ええ。

しかしだからといって
強制収容所にいた人が全員、コルベ神父ではない。


化けて出てやると思いながら死んだ人だっていたはずでしょう。
そして、そういう人を責めることは
誰にもできない。




私たちの周りを見てみても
そうそう聖者がいないように、
犠牲になった人たちだって
多くはごく普通の、欠点だっていくらでもある人間だったはずです。


人間の種類には上から下まで無数にあって、
他人の命と引き換えに自分の命をささげる人もいれば
自分のために他人をいくらでも食い物にして平気なやつだっています。


ほとんどの人はその中間にあって
損得を考えつつ、ときにはこずるく立ち回りつつ
でも人間性のどん底まで落ちることはよしとしない

そういう生き方をしているはずです。

亡くなった人たちだってそうだったはず。

犠牲になった人の中に
何人か聖者がいたからと言って、
犠牲になったイコールみな聖者だった、ということにはなりません。


私だって聖者ではないです。



美談はただでさえ、口当たりの心地よいものです。
いくらくりかえしても
いくら強調しても、しすぎるということはありません。

それで、美談ばかりが何度も何度も
伝えられる。


でもその陰で
ひそかに忘れられてしまう人たちがいるかもしれない。
きっといるでしょう。

その場を共有しているのに
記憶にも記録にも残らない、
聖者ではない多くの無名の人たち。


こういう、ごく普通の人たちを
ごく普通の人たちとして描くこと。
それが、私の“美談を描かない目”なのです。

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