美談を描かない目 其の二

――「見ない」のではない。「描かない」のだ。――

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さて前回書いたとおり
私は「美談の中に数えられなかった人」に
目を向けたくなるタチであります。


前回は強制収容所の話にちょっと触れて
それでおわりました。

これまた、数多くの「美談」が残っているテーマです。
それを否定はしません。
(そこまで人間性壊れてませんよ・・・)




しかし
生き残った人の証言にいくらでも出てくるように、
それだけではすまないのです。

「美談」を強調し過ぎるあまり
それ以外の、見るべきところが
かすんでしまったら・・・

それは危ないことです。



強制収容所のような場所では
他人を押しのけて、
自分だけが「より長く生き延びるために」
立ちまわらなくてはいけない。

そうしないと死ぬからです。
それが基本的な、もっとも「普通」なことなのです。


その記憶が「生き残った罪」として
帰還したあともずっと心の中で痛み続けるといいます。
私の好きなプリーモ・レーヴィはそう書いています。


こういうところは非常に重要だと
思うのですよ。

たとえば、3.11を生き延びた人の心境。
「自分が生き残って申し訳ない」
と思ってしまうこととの共通性とかで。


でも、どうもあまりクローズアップされないような。




クローズアップされるのは
フランクルが報告した
「夕日の美しさに感動する囚人」とか
「『日常のありがたさを教えてくれた』といって
 収容所に感謝する女性」
とか

こういう話です。


あるいは、
あの状況で人間性の崇高な面を
失わなかった人。

ポーランド人兵士の身代わりに処刑された
コルベ神父
とか。



上に書いた例は、たしかに
それはそれで忘れてはならないこと。

しかし、それだけを強調しすぎるのは・・・
どうかなぁとつい思ってしまうのです。



「美談」を強調し過ぎるあまり
悲惨な現実の方が、リアリティを失わないでしょうか。


強制収容所にしても戦場にしても、
「美談」が強調されるあまり
それ以外の部分が見過ごされがちなように思えます。




フランクルの『夜と霧』には
一日一個しかもらえないパンを
煙草に変えて吸ってしまう囚人
の話などもあります。

生きる気力を失って、目先の楽しみを選んでしまうのです。


どうも作中では
こういう心理を「極限状態に負けた失敗例」
として書かれているようですが(私にはそう思える)、

私はどうも、それだけで片付けたくないんですよねえ・・・



あるいは、解放されても喜べない心理
あまりに多くの死と恐怖の中にいたため
「自分を喜ばせること」を忘れてしまっているからです。



私はこれらの、干からびてしまった心の軌跡が
とても気になります。

どういうしくみでそうなってゆくのか。
どうしたら回復できるのか。

でも取りあげられることは、きわめて少ないですね。
なぜなら「美談」ではないからです。


しかしこういう、見過ごされがちな部分にも
目を向けてこそ
本当の意味で“その場所”の悪を知ることができるのでは。

自分だったらどうなるか?を
リアリティをともなって考えられるのではないでしょうか。
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