空間の断絶について

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震災から3年目を迎えて考えたこと、
パート2です。


妙なようですが、直後よりも今になっての方が
考えたことがちゃんと形になって浮かんできます。


いや、でも妙じゃないのか。

だいたいリアルタイムって
感情がまだ激しく動いているから、
かえって何も言葉にできないんですね。
(個人的なことで実感ずみ)


さて前回は
「一人の体験の重さ」について書きました。



犠牲者何万人という「統計」と、
そのうちの一人の「証言」との質的な違い。

「『何万人死んだ』じゃなくて、
『一人死んだ事件が何万件あった』」という
ビートたけしの言葉に
私は全面的に共感しました。






私がもう一つ考えたのは、
「空間の断絶」ということです。



ニュースで震災の映像などは
それはたくさん流れていましたよ。
でも、それをいくら体験しても
まさに被災地にいた人と
同じ体験は共有できないのです。


当たり前と言えば当たり前ですが、
これは私の作品制作にあたってのスタンスと
かなりつながってくるので。



私は震災から数カ月間、
ニュースを見られない状態でした。

なるべくシャットアウトするようにしていたのですが
家族が常にテレビをつけていたから
いやでも目や耳には入ってくるんですね。


もう3月からしばらくの間
テレビとか、すごい状態でしたよね。


どこを見ても震災・津波・火を噴く原発ばっかり。

おかげで、直接に被災していない私まで
神経がおかしくなったぐらいです。



正直、幼少期の自分に戻ったようでした。


家の中のどこを見ても
紛争・悪疫・差別・虐殺・社会問題の
写真や映像ばかりだったころの。

私は日常的にそういう情報に
さらされていて、
まともに眠れない夜が15年くらい続きました。

情報だけでです。



ただね、それでもやっぱり
「そこにいた人」じゃないんですよ。

もし、私がもうちょっと単純素朴な人間だったら
「映像や写真がトラウマになった」ということに
かえって喜んだかもしれない。
「これで現地の人たちと立場が近くなれたわ☆」とか言ってね。


でも、そういう考え方はできなかった。
今でもできません。


いや、できなくていいんですよ。

それができたら、ちょっとおめでたすぎますよね。





基本的に私は、
空間の断絶は越えられないと思っています。


これは3.11に限りません。

遠くはなれた場所や時間で
起こった出来事は全般的にそうです。


自分にとってリアリティとは
日常の中で見聞きし、考え、呼吸してきた
その日々の中にしかありえないのだと。

その日常の中に
とんでもなく「非日常的な」ことが起これば
私もまた、ある出来事の当事者となるわけですが・・・



越えられないからこそ、
自分がいる日常の中でどう感じたか、
何を考えたか

大切にしたいのです。

コメント

No title

越えられない・・・ですね。
津波の日の事は自分も覚えているのですが、自分の所では、あまりにも何も変わらない日常に虚しい気持ちになった覚えがあります。

まあ、自分の事もロクにできていないので、不幸な人を見てもなんにも出来ないんですが・・・

Re: No title

「越えられる」と思ってしまったら、逆にまずいのではないかな?と考えたりもします。
まあ「そこにいた」人であっても、受け取り方がまるで違うというケースもありますけど。

ただ「そこにいなかった」ことの断絶は、果てしなく大きいと思うんですよね・・・
だからこそ、日常のままで生きている自分がその日常をいかに真剣に生きるか。
それが大切になってくる気がします。

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