「ただひとりの体験」ということ

青のバラ143120001

東日本大震災から3年の節目をむかえ
わたしなりに考えたことがあったので
ちょっと書いてみます。

(節目といったって
何の「節目」なのかという問題がありますが、
とりあえずさておき)


私が3.11で考えた第一のことは、
「たったひとりの体験」の重さについてです。





3.11のまえから、
ときどき思い出したように考えてはいましたが
ようやく言葉になってきました。



ねえみなさん、
考えてみたら不思議じゃありませんか?


3.11に限らず
紛争や大規模な災害にしたって
「犠牲者何万人」という報告があるでしょう。

でも、その中にいる“特定のだれか”が
どういう体験をしたのか――については
そういう数字からは伝わってこないんです。


逆に。

「私はあのとき、こういう体験をしました」
という体験談が与える印象は、
「犠牲者何万人」という報告が与える印象とは
また大きく違います。

あるいは、犠牲者の衣服の一部とかでもいい。




“統計”と“体験”との間に
とても大きなずれがあるのです。

ずれというか、間隔といってもいいだろうか。


私は時々、これに驚くんですね。


被災者何万人と言ったって
その何万人のひとりひとりに
それぞれの体験と思いがあるということ。

その体験はどこまでいっても
「たったひとりの体験」ですが、
これが何万人ぶんもあるのですよ



たとえば、家族や学校のクラスとともに
被災した人がいます。
それは「集団としての体験」とも言えます。


しかし、たとえば
両親に子供二人という家族の中で
お母さんと子供一人が
亡くなったとしましょう。

生き残ったお父さんともう一人の子供には
それぞれ違った体験と、記憶と、
その後の生き方があるはずです。



クラスにしたってそう。

亡くなった子には親しい友達がいて、
ただなんとなく知りあっていただけの子がいて、
お互いに嫌いだった子もいるかもしれません。

その子たちそれぞれに、
ただひとりの体験があったはずです。

もちろん、亡くなった当人だって。




私は、その一人分の体験を極限まで想像するだけで
もう疲れ果ててしまうんです。

これが何万人分もあるかと思うと、
それ自体で呆然としてしまいます。


ビートたけしが「『2万人死んだ』じゃない、
『ひとり犠牲になった事件が2万件あった』んだ」

という意味のことを言っていましたが、
まったくそのとおりだと思います。



一人分の体験の重さだって
想像しきれないほどなのに、
それが何万人ともなれば
想像力をはるかに超えてしまいます。


しかし、この“想像力を超えている”実感こそが
その出来事のリアリティを感じる
手がかりになるのでないでしょうか。

「何万人の中の一人」ではなくて
「たったひとりの体験」を考えてみる。


被災の規模としての統計は
もちろん必要ですけどね。
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