煉獄と楽園のあいだを

ブログ用沼を渡る男 11年5月
【“沼を渡る男”  2011年5月 ミクストメディア B4】

神学者だったと思いますが
こんな言葉を残しています。

「地獄とは無感覚である」と。

喜びや楽しみを感じることができなくなってしまう、
そういう「快」の感覚を失ってしまうのが地獄だ、というのです


そうだとすれば、私はまさに精神の地獄を生きています。

でも、これは私だけじゃない。

同じ地獄をいままさに抱えている人、
かつて抱えていた人、
一時的に抱えていないけど
いつ復活するか分からない人。

その方々がそれぞれ
「内なる地獄」を持っていて
一人が一つずつ
違った地獄を生きている。

そういうことに思いをはせるとき、
私は慄然とします。
「一体この世に、地獄がいくつあるんだ?」

私のうつ病や過食症の理由は、
一言で言って
「心の飢え」なんでしょうけど、

その飢えの原因まで探っていると
もう解決策がないところまでいってしまう。
記憶は消すことができないし、
生まれて20年分の記憶によって
私自身の心に「内なる地獄」が出来てしまっているのだから。

物事のいいところだけ
必死で見つめようとして
4歳ぐらいからそうやって生きてきました


食べ物がある。(食事制限はあるけど)
眠るところがある。
頭の上から爆弾も落ちてこない。
これ以上何を望むのか、と。

その努力に疲れ果てたとき
どうやって喜びを見出したらいいのだろう


この世の地獄には終わりがあります。
だから、この世の地獄は煉獄(れんごく)と呼べるかもしれません。
煉獄とはカトリックで言う
有限の地獄のことで、
期間が過ぎればそこから抜け出せるといいます。

しかし、いつ終わるか分からないなら
永遠の地獄と大して変わらなく思える。

「内なる地獄」をかかえた人間は
喜びに盲目となり、
どこまで行っても満たされることがない。

でも、
「いつまで耐えなきゃならないの?」
「生きているほうが、死んでいるより絶対にいいなんて
誰が決めたの?」
なんて考えている私が、


たったひとつの楽園のかけらに
飛び上るほど大喜びする。


一つのコメント、
一つの拍手、
まだ描いていない一枚の絵。

これらの一つごとに、
また一日、死ぬことをやめるのです。

そして同時に気付きます。
自分がまだ、完全なる無感覚ではなかったこと

これは「いい気なもん」なのか、
私の中に残っていた「生の意思」なのか。

分からないけど、
こうして一日ずつ生き延びています。


ノドは今のところ無事。
今日は口の中で内出血が起こりましたが。
今回、粘膜は破れませんでしたけど
あとから黒っぽい血が出て
「あ、切れたな」と分かったんですよね。
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