殺されてはいけない理由

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相模原の障害者殺傷事件の余波が、まだまだ続いていますね。
続かなかったらおかしいぐらいの事件ですから当然でしょう。

あの事件で気がついたことには、
私には犯人に対抗できるだけのものがないんです。


自分が世のため人のために死ぬべきだと言われて、
断固として抗議できるだけの土台がない。


本能として抵抗はするかもしれませんが、
自分が死ぬべき人間ではないという保証が私自身の中にないんです。





ちょっと前に「生きるに値しない命」の記事で書いたように
出自によって生きる価値を失っていると信じてきましたし、

発達障害も持っているし、
重症化して一生ものになったため、ほとんど障害レベルに進化した食物アレルギーも持っています。





私にとって「殺してはいけない」の理由は明白です。


それは小学校で暗記させられた聖書の「十戒」にそう書いてあったからに
ほかなりません。
その対象がどこのどんな人間であろうと、いかなる差別も存在しません。

おそらくキリスト教圏に行けば、思考の根源的なところで「十戒」に行き当たる人はけっこういるはず。

キリスト教圏に生まれなかった私ですが、
自分が「殺してはならない」と考えている理由の元をたどれば、やはり十戒に行き当たります。
偶然に近い形で入った小学校の教えがここまで根を張るとは
私の両親でも予測できなかったことでしょう。



そこまではいい。



私が知りたいのは、「殺されてはいけない理由」です。



犯人に殺される人間の一人として、その理由を求めています。




いや、私以外の人間が殺されてはいけない理由は分かるんです。
それはさっき書いた聖書の教えに依っています。




相模原の事件について
新聞では数多くの記事が出ましたが、
私の疑問に答えてくれるような記事はありませんでした。
(私の家がとっているのは一紙だけなので
ほかの新聞にあるかもしれないのですけど)


どの記事も、いろいろな言い回しで犯人を非難しているだけで
なぜ犯人が間違っているのかを説明してくれてはいなかったのです。

障害者を大量に殺害するような人間は「絶対悪」であり、
ヒトラーを崇拝するような人間は「絶対悪」であり、
だからその理由を説明する必要はないらしい。



でも私は、その「理由」がほしい。




そして、もしかしたらその「殺されてはいけない理由」は
犯人と犯人に賛同する人間にも必要なのかもしれない。おそらく私以上に必要でしょう。
ただし殺す方の人間として。
実行するにせよしないにせよ、その考え方を阻止するに足るだけの理由です。





絶対悪を絶対悪だと認識しない人間にとって、
いくらその「悪」を非難されようと何のダメージにもならない。

ヒトラーを悪と認識しない人間もいるということであり、
今度の事件はそれが証明されたということではないでしょうか。

「悪いから悪い」という理屈では、もとより「悪い」と思っていない人間を説得することはできない。





「障害者はこんなにすばらしい人たちばかりなのに許せない」
という文章は多く見られますが
そういう言葉を受け入れるような人だったら、こんな事件は起こさないでしょう。

私自身、過去を思い出しても「すばらしい人」とはほど遠かった。


もしかしたら、世間一般の障害者はみな、すばらしい人ばかりで
私はそうでないのかもしれない。
障害者のすばらしさとしてよくあげられる「心の清らかさ」「心の明るさ」
なんていうものも持っていない。
では、すばらしくなければ生きていてはいけないのでしょうか。




何度も書きますが、犯人に殺される人間として。
「私が殺されてはいけない理由」がほしいんです。


ほかの子供たちにとっては不快感製造機にすぎなかった私が
なぜ「殺されてはいけない」のか、その理由が分からない。

テーマ : 今日のつぶやき。 - ジャンル : 日記

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